乱立する世界の狭間で生きていく。
ども。
やっぱりジモティーはいいっすね。根拠はないけど安心感で包まれてて、とても落ち着きます。
昨日、大学の教授と同級生と話す機会があって、改めて大学生としての存在価値を感じました。これまでどちらかと言えば社会に重きを置いてポジションを取っていたのですが、やはり学術的知見も非常に大事だな、と。
「社会」と「学術」の両輪をフル回転させながら、連続的な学びをしていきたいな、と思わされました。
さて、先日成人の日のこと。
自分の選択は自分のものだけじゃない、ということを考えさせられました。
特に興味もない上に、旅をしながら集中した学びをしたかったので、「自分としての存在」の選択として成人式には行きませんでした。恐らく、正しい選択であったと言えるでしょう。
しかし、自分を「家族の中の自分としての存在」として捉えるのであれば、今まで苦労して育てた子供の成人式での晴れ姿を一目見たいと思っていた両親の願いに応えられなかったという点で考えるのであれば、間違いなく正しくなかった。
「自分」という存在。
「家族の中の自分」という存在。
「友人関係の中の自分」という存在。
「地域・日本・世界・地球の中の自分」という存在。
僕たちはこの乱立した、半無限にあるコミュニティの中で生きています。
これから生きていく上で、二者択一の選択を迫られることを避けては通れない。しかし、どちらを選ぼうとも自由だ。
僕、そしてあなたはその時、どちらを選択しますか?
なぜその選択をしたのでしょうか?
自分のために、愛する人のために、あるいは社会のために…。
どれを選択しても正解であり、不正解だ。
そんなことが頭の中で渦巻いていた今日。
ある言葉をふと思い出しました。
「人間は自由の刑に処されている」
では。