失う辛さと創る難しさ
江津線が来月1日に廃線になるらしい。
開業から87年の歴史に幕を閉じようとしている。そんな特集を集落のおっちゃんたちとテレビで見ていた。そのインタビューの中でとあるおばあちゃんがこんな話をしていた。
「隣町の眼科に行くためにこの電車に乗ってもう3、40年経つ。もはや生活の一部なんだよ。今まではなんとも思っていなかった汽笛の音ももう聞けなくなると思うと、寂しくて涙が出てきてしまうよ。」
これを見て、言葉にしきれない切なさを感じた。
課題先進国と言われる日本。少子化、高齢化、産業衰退、数えきれないほどの問題を抱えている。このままいけば間違いなくこの日本は消えゆく運命にあるだろう。特に少子高齢化の問題は深刻である。これに併発されて伝統文化の未継承であったり、生産人口の減少による経済衰退など付随する問題も数多く存在している。この江津線の廃線にあるように、今まで当たり前に享受してきたことが徐々に消えていっている。伝統文化、産業、自治体コミュニティ・・・。僕は今まで、時代の波に乗れないものは自然淘汰されても仕方がないと思っていた。今学んでいる農業においてもそうだと。
しかし、本当にそれでいいのだろうか、と思う。
ビジネスにして収益化するだけで本当にいいのだろうか。市場主義により稼げない人は自然淘汰されていく。それで本当に持続可能性があると言い切れるのだろうか。無論、僕はそうは思わない。今までたくさんの農家さんと話してきた。もちろん彼らは相対的に見て意識を高くして収益化を目指している。いわば成功に向けて走り出している人たちだ。
でもみんながみんなそうではない。
稼げない農業を辞めたくても辞められない現実に直面している人、親類に配って喜ぶ顔を見たいがために畑を耕す人、親の強い要望によって仕方なく農業を継いだ人。
たくさんの多種多様な思いが混在する中で、この農業は守られてきた。そしてそんな農業には多面的機能が備わっている。天災から集落を守ったり、その緑の景観は人々に安らぎを与えてくれる。農業を営むことによる多面的機能の維持に対してなんらかの報酬が生まれるわけでもないのに、である。そんな彼らを、稼げない奴は自然淘汰されてしまえばいい、なんて僕は絶対に思えない。仮に、そうなったとして、これから誰がその機能を維持していくのか。ソーシャルビジネスが介入したとしても限定的な地域に留まってしまうどころか、それに至るまでに荒廃していくのが関の山であろう。
僕は農業に携わる全員が子供達への教育に十分投資でき、かつ自分たちの生活を難なく営めるぐらい稼げる環境を創りたい。いや、創らなければ日本の地域はいよいよ終末が訪れると言っても過言じゃない。
まずは、愛媛から。そして全国の地域へ。
駆け出していくしかない。
当たり前を失う辛さはもうこれで終わりにしよう。