ローカルハンター ヒロ

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「義」と「私欲」の聖戦

「義」と「立身」の聖戦。

 

1600年9月15日。その後日本に250年余の泰平をもたらし、近代国家の礎となる時代の転換点となる戦いはわずか半日で終わった。関ヶ原の戦いである。

 

戦いの中心にいたのは、秀吉亡き後、豊公の恩に報いるべく主君への「義」を貫いた西軍総大将石田三成。そして信長、秀吉が次々と天下を切り裂いて行く中、野望を水面下で粛々と膨らませ己の権力を高めんとする東軍総大将徳川家康。そんな戦いの舞台へ今日は行って来た。

 

 

 

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秀吉存命中、その勘定能力の高さと誰にを思われようとも正義を貫く性格を買われわずか31歳にして佐和山23万石の主となった三成。彼はここから城下を見下ろし、何を考え、どんな日本の明日を考えていたのだろうか。歴史は勝者によって描かれるものであり、三成は小賢しい、融通がきかない、などといった悪評がつきまとっていた。がしかし、実際には当時では異例の寛容な政治を行い、浄化に住む人々の信頼は絶大であった。それもそのはず、関ヶ原の戦いで敗北が決定的となり伊吹山を経て配送中、その政治を受けてきた人々の手によって保護されていたのである。

 

 

 

 

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そして三成の話をする上で欠かせないのが、この大谷吉継の存在である。当時不治の病として恐れられていたハンセン病を患っていた吉継。こんな逸話がある。

 

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ある茶会でのこと。一同に介したものたちが円を作り、お茶を飲み回して行く行事が行われていた。当時、吉継はハンセン病により顔から膿がただれ、飲んでいた茶にそれが入ってしまったのである。誰もが感染を恐れ、皆飲んだふりをして回していた。ところが、その場にいた三成は何を言うこともなくそれを全部飲み干したのである。その時から、吉継の三成に対する友情関係は深まっていたのである。

 

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そんな関係であったにも関わらず、三成から関ヶ原の戦いに従軍するよう誘われた吉継は何度も諌めた。この戦いは万に1つも三成には勝ち目はない、と。秀吉に100万の軍を指揮させたいと言わせるほどの軍才を持つ吉継が言うのであるが、頑として三成は聞き入れなかった。そしてとうとう吉継も三成と運命を共ににすることになったのである。

 

三成は確かに、一部有力者からは非常に嫌われていた。その嫌悪が東軍の戦力増大を引き起こしたことは言うまでもない。歯に衣着せぬ言い方で誰として悪は悪として断罪されていたからである。しかし、誰よりも正義を貫くが故に、吉継然り、晩年側近として使えていた島左近然り、絶大な信頼を寄せられていたのである。人は誰からも好かれることなどあり得ない。特に、三成のポジションであった行政や政治の施す策は万人に受け入れられることなどないに等しい。だからこそ、自分の信じる価値観に、生き様にこだわるべきだ。吉継に言われていたように、三成の中でもこの戦いにおける勝算はもしかしたら低かったのかもしれない。しかし、そうであろうとも自分の正義に背くことは看過できなかったのであろう。

 

「正義」ー。それは自分の進むべき「道」なのだと感じる。「峠」の継之助然り、自らに正義を定義づけ、判断軸として生きていた。その生き様は時として周囲の不理解を生み、自身が損をすることが多いことだろう。しかし、他人の主観は理解することも、変えることもできない。だからこそ、自分の確固たる正義を貫いて行く必要があるのではないだろうか。

 

 

 

 

 

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彼は出陣前、何を思い、どんな明日を夢見ていたのだろうか。もう誰も知ることはできない。