ローカルハンター ヒロ

全国を旅しながら農業や田舎の情報発信をしていきます。

人生とはまるで星の輝きのようであるー。

 

 

 

今日、長いバスでの移動を終え大阪から軽井沢へ戻って来た。高層ビル群から見下ろされている感覚はどうやら一生をかけても慣れることはなさそうである。かといってそんな都会が嫌いというわけではないのだが。

 

ここ軽井沢、とりわけ今いる北軽井沢は山々に囲まれた文字通りの中山間地域である。前方に浅間山が悠然と聳えているかと思えば、その反対には残雪ある白根山が構えている。この山々を満州から引き上げて来た先人たちが自らの手で開拓し、今の広大な面積を誇る畑を残しているというわけだ。

 

書を読むにふけり、時間を忘れ夜を迎えた。喉の渇きに気づかず、近くの自動販売機に向かって歩みを進めた。満点の星空である。一面に畑が広がっているので眼前を邪魔するものはなく、それがそうさせたのか、街灯はほとんどない。故に、星の輝きはいつも以上に訴えかけてきている。しかし、どこか儚さを感じさせるまである。なぜ儚さを感じるのか、それは星にも寿命がありいつかその光は消え失せてしまうからだ。

 

遠く宇宙の彼方から悠久の時間を経て地球に降り注ぐ星の光達。その光の正体は3種類あり、自分が燃えて光を発する恒星とその光の反射光により輝いて見える惑星と衛星。故にその光には寿命があり、地球にその光が届く頃には超新星爆発を起こして消えていることだって考えられる。最近ではオリオン座の一部、ベテルギウス超新星爆発をしようとしているそうだ。今まで当たり前のように存在していた現象が突如として姿を消す、避けては通れないの運命なのである。ここに人生を想起せずにはいられなかった。

 

人間は生まれながらにして死に向かう存在である。生き永らえるために生きるのではなく、死にただひたすら歩みを進めるのである。その死は無規定で、その終わりを告げる笛はもしかしたら今鳴らされるのかもしれない。死は生に対するものではない。むしろ死ぬために生きているのである。にも関わらず、いとも容易く永遠などと浅薄な見立てをしてしまう。永遠に何の価値があるのだろうか。死、つまり終わりを、保有する人生の時間が有限であると自覚し、受け入れ、愛するからこそ生きることに希望を見出せるのである。

 

そんな衝動が突如として頭を支配しているのも束の間、自動販売機の前に着いた。吐く息は季節外れに白く染まり、消えていく。こうしてまた死へと歩みを進めていく。