農業の問題の共通項
これまでたくさんの現場で、たくさんの農業関係者の方々と出会い、話し、時には自分の甘さや無力さを痛感したり、未知なる世界に胸の高鳴りを感じてきた。
農業とは「生きる」ことと同義だと僕は思っている。
人間の命を作る農業。畑で自然と対話しながら働ける農業。自然の尊大さに時には鼓舞され、時にはそのあまりにもの大きさに畏怖するときすらある。まさに僕にとって生きるとは農業をするということなのだ。
一歩先を行く農業経営者の取り組みも訪ねる先々でその都度衝撃を受けてきた。
ITを駆使した経営管理。5年かけて最適化してきた圃場。自らが価格決定権を持ち、自分で定めた商品の価値を消費者に届ける経営者。地域一帯の農家さんを巻き込んで商品開発をする島のジャム屋経営者。
ただその光の裏にはたくさんの問題も潜んでいる。少子高齢化、生産人口の減少、耕作放棄地の増加・・・。
その共通項にあるのは一体なんなのだろうか。この1年間、ひたすら思案してきた。そしてあるキーワードにたどり着いた。
「不信」
それは農家と政府、行政、農協、消費者、そして家族との間にある不信である。彼らの間に信頼関係が構築されてないあまり、現場と机上の捉える問題の大きなミスマッチが生じたり、ニーズに添えるサポートが行われなかったり、安全性に疑念を抱かれたり、終いには事業継承がうまく行われず耕作放棄地が増加していく。挙げ句の果てに、地域によって問題の程度は異なるため、更に厄介である。(産地によれば、逆に耕作地獲得の競争が起きていたり、就農者の飽和状態に陥っている地域もある。)
ではこの共通項である「不信」をどう解決していけばいいのだろうか。
それは不断のコミュニケーションをしていくことでしか解決できない、と僕は思う。言葉を創り、それを適切に届けないとこれら問題は解決できないのである。
政府や行政に諦めをつかせるのも、農協の悪口を言うのも簡単だ。消費者にどういった思いで作っているのかも言葉にしないと伝わらないし、現場は変わらない。沈黙は何も手を差し伸べてくれない。残酷なまでに何も。
言葉を届けるコミュニケーションのあり方はこれから様々な手段が台頭してくるだろう。直接言葉を届けるのか、はたまたテキストで、音声で、動画で、とあらゆる媒体でそれらが実現されていくはずだ。
それまで農業の現場の最前線で営む僕たちがしなければならないのは、粛々と言葉を創り、思考を磨き、研ぎ澄ましていくことである。
味や品質など漠然とした基準で作物を買ってもらうのではなく、こだわりや哲学を買ってもらう。そして培われた思いや憤りが組織を、社会を変えていく。そんな時代が待ち受けているのではないだろうか。