ローカルハンター ヒロ

全国を旅しながら農業や田舎の情報発信をしていきます。

世界に色はあるのか。

ども。

 

記念すべきこのはてブロでの記事数が100記事目に突入しました。

 

プラットフォームを変更してだいぶ時間が経ちましたが、旧ブログ含めここまでストックされるとなんだか達成感で満ち溢れますね。日頃見てくださっている方、今後ともよろしくお願いいたします。なお駄文は出すつもりはないので、ひたすらに納得するまで追求してアップしたいと思います。

 

 

 

さて、その100記事目にしてこのタイトル、「世界に色はあるのか」

 

「色」とはそもそもなんぞや、という話で始めたいのですが、ウィキペディアによると、

 

可視光の組成の差によって感覚質の差が認められる視知覚である色知覚、および色知覚を起こす刺激である色刺激を指す。

 

つまり、光の波長の刺激を人間の感覚が捉えたもの、であると理解できます。紫外線やら赤外線やらで一度は理科の授業で見たことがあるのではないでしょうか。では、その感覚が捉えたものは万人普遍的なものなのでしょうか。それは絶対的なものなのでしょうか。そもそも論、僕の見ている赤色があなたの見ている赤色ともしかしたら違う、青色だったなんてこともありえるのではないでしょうか。

 

世の中に、「色覚特性」という概念があります。これは目の特性の1つで、色を識別する錐体細胞が色の認識・識別が多数派と違うそうです。彼らがマイノリティーであるが故に、マジョリティーの目に映る色が普遍的なものとして認識されていますが、実はそうではなく、個人によって色の捉え方が微妙に異なりその集合体としてあたかも色の捉え方が普遍的になっているだけである、のです。

 

ここで疑問に思ったのが、「実際に世界にに色はあるのか」ということです。

 

僕自身の仮説としては、「世界にそもそも色はついておらず、反射する光の波長を個々人の感覚神経がそれぞれ解釈しているに過ぎない」に行き着きました。

 

この仮説を立てたところで何の役に立つんだ、と外野から怒号が飛んできそうですが、とんでもない。大いに役に立つどころか、人間であるが故の根本的な精神性に必要なものだと思っています。この問いから分かったことは、

 

「世界は存在しない。」

 

そもそも論になるのですが、つまり、自分が見えている世界が他者にそっくりそのまま見えているとは限らない、ということです。

 

先程色の認識プロセスを説明しましたが、世界は存在しているわけではなく自身の脳が世界がそのようにあると解釈している、と僕は思っています。もしかしたら、脳が今目の前にある現実をシネマサンシャインで投影される映画のごとく見せているだけに過ぎない、ということもあり得るということです。それがいわゆる「世界」には75億もの本数があるのです。

 

「世界を変えたい!」と思うことも、あなたの物語に出てくる人でそう言う人も現れてくるでしょう。世界を変える前に自分を変えろ、とはまさにその通りで、自分の見えている目の前の事実そのものがあなたにとっての世界であるので、自分を変える、つまりは自分の解釈の仕方を変えることで世界はいとも容易く変えることができるでしょう。

 

また他者の意見の多様性や価値観の違いも受け入れるか否かといった次元の話ではなく、そもそも見えている世界が違うので、理解しがたいが、そういった考え方もあるのか、と認識せざるを得ないのではないでしょうか。