ローカルハンター ヒロ

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「国盗り物語」読了

先日の「項羽と劉邦」読破から1ヶ月半も経ち、ようやく「国盗り物語」を読破しました。今作品は全4冊から構成されており、その中でも「斉藤道三編」と「織田信長編」の2部編成になっており、司馬文学の中でも比較的珍しい部類に入るのかな、と思っています。

 

司馬作品を読む上で前提となるのは、フィクションであること。あまりにも克明な人物描写や歴史的背景を如実に描くことであたかもまるで過ぎ去ったかのように錯覚させるのが彼の作品の凄味であり、同時に畏怖すら抱くまであります。

 

今作品では、道三からありとあらゆる哲学を受け継いだ信長、光秀が栄枯盛衰を極めるまでのプロセスが小気味よく書かれており、4冊という長部編成にも関わらず既出の作品以上に読みやすかったのは、彼らのその繁栄から死に至るまでがまるであらかじめ物語の如く運命によって仕組まれていたかのように思わせるからなのでしょうか。

 

信長は本能寺で生に終わりを迎えるに際しても、敦盛の一節「人間50年」を舞ったと言われています。この詩が言うには、諸行無常、すなわち天に流れた時間と比べれば、人生など幻想に過ぎない。生を受けたものには必ず死が訪れる、と汲み取れるでしょう。人生は想像以上に儚いからこそ、今この時間を大事にしろ、とかのうつけから言われているかのようです。

 

さて脱線しましたが、今作品の見所は「道三の意思を引き継ぐ信長と光秀の軌跡」といったところでしょうか。

 

戦国初期、しがない一僧侶だった道三は油売り、そして美濃国主まで順調に成り上がっていきます。ただ悲しいかな、天下統一を掲げた道三にはあまりにも時間が足りなかった。彼が一国の城主の子としてこの世に生を受けていれば、歴史は大きく変わったのかもしれません。

 

その彼の意思を引き継いだのが信長と光秀でした。ここで面白いのが、彼らの性格があまりにも対照的であったことです。既成概念をことごとく打ち崩し、自らが伝統と権威に成ろうとした信長風光明媚を敏感に捉えうる感性を持ち、文化や伝統を重んじた光秀。両者の相容れぬ趣向が対立構造を徐々に深めていき、必然的に本能寺の変を招いたといっても過言ではないでしょう。皮肉にも、「天下統一」という共通の目的を掲げていたのですが。

 

彼らの趨勢を見ていると、かの偉大な哲学者ニーチェの言葉を思い出します。

 

「論理は完全な虚構の見本である。」

 

この戦国時代。各地でひしめく大名たちが私利私欲や義との闘争を経て、複雑極まりない社会構成を成していました。僕自身、これまでの歴史を振り返ってみてこの時代ほど人間が人間であることを感じさせられる時代はありません。人間の欲望がこの時代を発展させたと言ってもいいでしょう。そんな彼らの前に組み立てたロジックの積み木は悉く欲によって壊されてきました。思考の副産物に過ぎないこの論理は現実世界には存在せず、ただただ複雑極まりない要素で構成されている社会に気づかされるだけではないでしょうか。もちろんこれは現代に通ずることでしょう。確かに論理は必要なのかもしれませんが、それがいつも合理的であるとは限らない、ということは念頭に置いておく必要がありますね。

 

前述した通り、僕がこの戦国時代に惹かれるのはその時代を生き抜いた武将たちが己の夢を普段に追い求め、生き方の美学を貫いたからに尽きます。もし自分がこの時代に生きていたら、はたまた今の時代に生きているからこそどう生きるか、と思索は止みません。

 

ぜひね、今作品「国盗り物語」は読んでみてください。