ローカルハンター ヒロ

全国を旅しながら農業や田舎の情報発信をしていきます。

「時間」に記憶させる

幼稚園、小学生の時、貪り食うように図鑑にのめり込んだ。

 

恐竜、昆虫、動物、歴史・・・。

 

両親も快く図鑑を購入してくれたため、より一層の興味を掻き立てられた。そこで得た情報とその時に刻んだクレヨンの落書きはは今でもしっかりと残っている。もちろん知的欲求を掻き立てる本能も携えて。

 

多くの人が経験したことがあるのではないだろうか。ポケモンウルトラマンに出てくる怪獣は全て誤りなく覚えられるのに、古文のごくごく限られた助詞や数学の公式は頭に入ってこない。この能力を勉強で使えたら、と。意識的に「覚えよう」としたのに、である。

 

この両者の違いは、意識を従属させるか否か、である。非常に単純明快である。

 

まず後者の方から説明すると、その学びは本当に学びたいものなのか、欲求的なものなのか、という問いに対して甚だ疑問である。非本来的な欲求であることは自明である。

 

一方、前者では自身の意識に身をまかせる、いやもはや従属させられているではないか。もはやそこに自身の意識は存在していないのかもしれない。思い返してみれば、図鑑に入り浸る時間を自分は求めたことがないように感じる。なぜなら、気づけば図鑑を手にし、読んでいたからである。時間が経つにつれてその領域の知識は増していくのである。

 

人間が人間を支配することが持続的な政治ではないことは人類史によって証明されてきたように、自身の意識、欲求もまた従わせることに未来はない。

 

逆に考えてみると、時間の流れの中で消失していく情報は自身にとって必要ないのではないか。であれば、ただただ己の自然的・本来的な欲求(これは認識できるか否かはまた考えることにしよう)に身を任せることにしよう。あとは時間が解決してくれる。

 

自身が記憶するのではない、時間が記憶するのである。