ローカルハンター ヒロ

全国を旅しながら農業や田舎の情報発信をしていきます。

日米の差はどこで生じたのか。

     1945年、日本は敗戦国として一面焼け野原の風景から国家としての再スタートを迫られた。そして朝鮮戦争、高度経済成長期を経て、敗戦国としては異例の復興を果たした。そして迎えたバブル経済では、アメリカをも脅かす経済大国となった。当時のアメリカの風潮は、日本に追い越されるという危機感があったらしい。今となっては、アメリカのGAFAをはじめとするメガベンチャー企業が国家のみならず世界でポジションを確立しつつあるが、当時の日本ではそのような企業が生まれる希望もあったのではないだろうか。

 しかし現状を省みてみると、アメリカがそこから盛り返し、かたや日本は「失われた20年」と揶揄されるように経済停滞にあえいでいる。この20年間で一体、日米にどんな差があったのだろうか。

 答えは非常にシンプルで、僕は「『知』に対するリスペクト」の有無なのだと強く思う。Appleの革新的なデザインは、スティーブ・ジョブズの顧客インサイトを非常に精密に把握する「知」の存在があっただろうし、Facebookザッカーバーグは、アメリカの大学のエコシステム(アメリカのトップレベルの大学は1年次に大学寮で住まうことを強く勧めているとのこと。そうすることで縦と横の関係を密に構築し、教え教えてもらう学習システムを作るのだ。詳しくは、映画「ソーシャルネットワーク」を参考に。)がなければおそらく、創業にこぎつけてはいなかっただろう。これもアメリカの大学の制度設計の賜物、知の生産システムの副産物なのである。

 かたや日本ではどうだろうか。アメリカ礼賛、日本蔑視の片棒を担ぐ気は毛頭ないが、事実何が起きているのかは厳正に見つめなければならない。特に昨今では、大学の学習スタイルとして実務主義的側面が強く押し出され、スキルに結びつくものに価値のパラダイムシフトが起きた。僕は自身の大学生活を鑑みて、「学問」に対する議論がどんどん衰退していっているように感じる。(社会人の方々と話していたり、本を読んで強く感じるのだ)加えて、大学教授は就職活動やその他雑務に追われ、研究時間も大幅に削減せざるを得ない状況だ。挙げ句の果てに、大学教育は意味がない、と明らかに思慮浅薄な声が相次いでいる。政府予算も基礎研究に対して、明らかに先細りさせるような組み方がなされており、名門大学に入学し、何を学んできたのかと疑義をかけたくなるほどだ。

 この憂いある現代だからこそ、フランシス・ベーコンの言葉「知は力なり」という言葉がより一層、身に沁みる。まるで16世紀から今の日本の成れの果てを予測しているようだ。この状況で一体どんなイノベーションが、新たな「知」の体系が生み出されるのだろうか。僕には想像できない。

 だからこそ、僕は僕自身でもっと「知」に対してハングリーにならなければならないし、大学生同士においても、もっともっと知の再生産が活性化されることを願ってやまないのである。