ローカルハンター ヒロ

全国を旅しながら農業や田舎の情報発信をしていきます。

偶有性と出会える場所

久しぶりに風邪を引いた。


僕がこう言うと皆して、珍しい、意外だ、お前の世界に風邪という概念があったのか、と散々に言われるが、これでも僕は人間なのだ。驚き慄いたり、劣等感に苛まれたり、生きることが辛くて惨めでたまらなくなったりするのだ。ただそんな感情があるからこそ愛おしい、美しいといった感情にも出会えるのだろう。


休学を終え、もう一年が過ぎたらしい。母親に先日「去年の今日、帰ってきたんやね」と一声かけられて気づいた。


もう一年か。


あっという間に過ぎ去る時間に羨ましさを感じながらも、思い立って自分のブログを見返してみることにした。


一年で200弱の記事を書き続けてきた。我ながらよく続いたな、と思いつつ続けることの難しさを感じた。今はこうして1ヶ月おきに気が向けば更新するだけだ。何をするにしても始めるのは簡単だが、続けるのは難しい。


ブログにざっと目を通すと、まるで自分の見えているものが全世界像なのだと言わんばかりな強い口調。抽象度が高過ぎるテーマを扱っているにも関わらず問題の切り口が甘く、結局何が言いたいのか分からず不時着した文章。しかしどうやら僕の文才ではハドソン川の奇跡を起こせなかったらしい。


ただそこには過去に歩んできた時間が脈々と記録されており、それはそれで決して意味がないことではなかったのだと信じたい。過去は変えられないが、過去をどう捉えるか、どう意味づけをするかは未来の自分にだってできるはずだ。


顔を赧らめながらもこうした感情が起こるのは、少なからず当時よりも成長した証拠じゃないか、と願いたい。今後ストックされた記事は加筆修正を加えていくことにしよう。


そうして休学を終えて一年余が立ったわけだが、変わったことと言えば書店に足繁く通うようになったことか。


特に目的はない。友達との待ち合わせ時間の1時間前に行き、書店で時間を過ごす。講義の休み時間にふらっと生協の書店に立ち寄る。僕にとっての「ついで」は書店に足を踏み入れることなのである。


何がそこまでして書店に惹きつけられるのか。それは、そこに「偶有性」が存在しているからである。


ふと目にした本の表紙に心を掴まれたり、そう言えばあいつがこんなことに興味を持っていたな、とかこのタイトルすごく気になるな、とかとか。思いもよらない未知との遭遇が多発するのだ。


これは統計的処理に基づくレコメンド機能では決してなし得ない妙義なのだと強く思う。ネット通販では欲しいものをすぐに、どこでも、いつでも買うことができる。しかしそれは「欲しいもの」にかなり限定される。一方書店では、欲しいものはもちろん、その「偶有性」をも購入することができるのである。これは書店ならではの強みであり、これからの生存戦略でもあるのではないだろうか。


自分の想像を超越し、世界を拡張してくれるこの偶有性は進化の源泉であるはずなのだが、最近身の回りでこの偶有性が失われたつつあると思い、少し寂しく感じるのだ。


僕はこの先も書店に通うだろうし、風邪を引くことも夕立にあってずぶ濡れになることも合わせて愛を見出していきたい。