ローカルハンター ヒロ

全国を旅しながら農業や田舎の情報発信をしていきます。

それでも僕は紙の本を読む。

ども。

 

昨日一昨日は暑かったですね。台風の影響でしょうか。おっと台風と言えば、この季節に来るのかと言わんばかりにぼこんぼこんと24、25号が出現したりとものすごい変化を目の当たりにしました。自然災害が増加傾向にありますし、季節の移行時期でもあるので、気を付けたいですよね。

 

さて、秋と言えば「読書の秋」ですよね。

 

えっ・・・?

 

その図体で読書かよ、飯食ってろよ、と冷たい視線を感じるんですけど・・・。

 

まあそれはさておき、皆さんは読書をどうされていますか

 

積読は絶対しないだとか、表紙で買う買わないを決めている、とか様々なマイルールがあると思います。これだけでも1時間2時間語れると思うのですが、その中で一番と言っていいほど激論になっていると思うのですが、

 

 

 

読書をするには、紙か電子か。

 

 

 

結論から言うと、僕はTPOに使い分けています。家で読むには必ずと言っていいほど紙の本ですし、短期旅行は電子書籍をダウンロードして移動中に読んでいます。

 

ただどちらかを選べと言われれば、迷うことなく僕は絶対「紙の本」を選びます。紙推し、単推しです。推し変は致しません。それは罪です。その理由としては大きく2つあるので、以下でそれに触れていきましょうか。

 

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創造力は距離に比例する。

 近年、クリエイティブな人材のニーズが高まっています。これからAIを始めとするあらゆるテクノロジーの発展により、単純作業を人間が担わなくてもよくなる時代がすぐそこに来ている、と。来るシンギュラリティが2045年には到来すると言われていますが、(これが現実になるかどうかは諸説あります。)これからの時代は自らが問いを立て、その問いに対してクリエイティブな解決策を講じていく人材の価値が非常に高まっているのは事実でしょう。

 

 では、そもそも「クリエイティブ」とは何なのでしょうか。「クリエイティブな人材」とはどういった人なのでしょうか。

 

「クリエイティブ」とは。

 

 シンプルに言うと、「創造的」ということですよね。この「創造的」というのは、僕は何も真っ白な紙から何かを生み出す、いわゆる0→1を生み出すことではないと思っています。これに関して友人が示唆に富んだことを言っていたのですが、「0→1なんてそもそも存在していなくて、元々存在していた価値を人間が時代の移り変わりとともにそれに価値を見出したに過ぎない。新たに生まれたのではなく、価値はそもそも存在している。」と。ではこのクリエイティブの源泉は、本質は何なのでしょうか。

 

 「クリエイティブ」ー。それは、既存の価値をアップデートし、新たなる価値として価値を再構築していくということです。これは今に始まったことではなく、特に哲学史を振り返ると古代ギリシア時代から常に思考され続けられてきたことです。哲学ですね。既存の価値観であったり、倫理観であったりというものを不断に更新し続けて今日に至ります。つまり、過去あるものの中から紡ぎ合わせていく、ということなんです。

 

 今でも非常に多くの人にも読まれている「源氏物語」も「千夜一夜物語」もその紡ぐプロセスによって価値が生まれたと言われています。短編一つ一つでは面白さを持たないものも、それらを組み合わせたり並べ替えて順序を付けたりすることによって大きな価値をもたらし、今日にまで残る作品となったのです。1+1=2に留めないことがクリエイティブが生み出す価値なんですね。

 

 ではその「クリエイティブ」はどのようにして身に着けられるのでしょうか。先天的なものなのでしょうか。

 

クリエイティブな人材とは。

 

 クリエイティブをテーマにした記事なのですが、ここまででクリエイティブを12回使いました。うるさいですね~。あの世でアインシュタインに顔面シュークリームをくらわされそうです。余談なのですが、20日から友達と一週間ロンドンとパリに行ってきます。が!しかし!関空からの便なので、フライトが欠航する可能性が・・・。先日の台風の影響が予想以上に大きいみたいで復旧に時間がかかるみたいです。自然の爪痕というのはやはり恐ろしい。畏怖すら抱きますね。現場の方々の急ピッチで行われているであろう復旧工事に感謝しつつ、ゆるりと吉報を待とうと思います。

 

 さて、このクリエイティブの思考力はどこから生まれるのでしょうか。生まれ持った先天的なもの、天才のみが持ちうる特別なものなのでしょうか。否、そうではなく、答えは「距離」にあると思います。

 

 創造力は距離に比例する。見知らぬ土地に行った時、新しいお店に入った時、見知らぬ人と出会い、話した時・・・。その自分が歩き回った距離に比例して、新しいものと触れられる=紡ぎ合わせられる材料を増やすことができるのです。この距離とは、「自分の世界観の広さ」でもあるのです。自分の見えている世界が広ければ広いほど、既に存在しているものを認識していればしているほど、この創造力もまた豊かになるのだと思います。1+1をすることによって新たな「1」を生み出すというわけです。

 

この距離は何も物理的なものに限定されるものではありません。本、ゲーム、ネット・・・。ありとあらゆる思想体系から学び、自分の言葉を生成し、世界を創ることができます。何せ、世界は言葉で出来ているのですから。(これについては過去記事からどうぞ。)

 

 

local-hunter-hiro.hatenablog.com

 

 

距離を伸ばし、自分の言葉を手にし、思考を武器にし、創造力を育んでいく。この環状サイクルを創っていければ自ずと世の欲するクリエイティブな人材になれるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

21周年生誕際

ども。

 

えー、私事ですが、あの、その、ですね…。

 

21歳になりました!!!

 

まだ21歳だったのか、と疑われそうですが戸籍上そうらしいです。年齢にようやく容姿が追いついてきた、という感じですかね。

 

大学生活に入って、初めて国内で迎える誕生日なんですね。(1年の時はウェールズに、2年の時にはマレーシアにいました!)今日はゆったりとした時間を友達と過ごすことができて幸せでした。

 

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(21歳を迎えて初写真。)

 

さて、節目である残念生誕20周年。「全国農家さんのとこ行っちゃう?プロジェクト」で全国各地を転々と回っていました。

 

農業に対する見方や知見も長い時間かけて積み重ね、考えることができました。これからも時間をかけながら将来について、農業について、もっともっと誠実に考えぬいていきます。好きだからね。

 

そして21歳を迎えましたが、特に心境が変わったり、目標が出来たわけではありません。今までと同じように、大好きな農業と自分の関係半径にいる皆を幸せにできるように粛々と刃を研いでいきたいと思います。そしてゆくゆくは人生の目標である「世界平和の実現」を目指していきたいと思います。

 

今年1年もよろしくお願いいたします。

 

白方大海

 

 

「時間」に記憶させる

幼稚園、小学生の時、貪り食うように図鑑にのめり込んだ。

 

恐竜、昆虫、動物、歴史・・・。

 

両親も快く図鑑を購入してくれたため、より一層の興味を掻き立てられた。そこで得た情報とその時に刻んだクレヨンの落書きはは今でもしっかりと残っている。もちろん知的欲求を掻き立てる本能も携えて。

 

多くの人が経験したことがあるのではないだろうか。ポケモンウルトラマンに出てくる怪獣は全て誤りなく覚えられるのに、古文のごくごく限られた助詞や数学の公式は頭に入ってこない。この能力を勉強で使えたら、と。意識的に「覚えよう」としたのに、である。

 

この両者の違いは、意識を従属させるか否か、である。非常に単純明快である。

 

まず後者の方から説明すると、その学びは本当に学びたいものなのか、欲求的なものなのか、という問いに対して甚だ疑問である。非本来的な欲求であることは自明である。

 

一方、前者では自身の意識に身をまかせる、いやもはや従属させられているではないか。もはやそこに自身の意識は存在していないのかもしれない。思い返してみれば、図鑑に入り浸る時間を自分は求めたことがないように感じる。なぜなら、気づけば図鑑を手にし、読んでいたからである。時間が経つにつれてその領域の知識は増していくのである。

 

人間が人間を支配することが持続的な政治ではないことは人類史によって証明されてきたように、自身の意識、欲求もまた従わせることに未来はない。

 

逆に考えてみると、時間の流れの中で消失していく情報は自身にとって必要ないのではないか。であれば、ただただ己の自然的・本来的な欲求(これは認識できるか否かはまた考えることにしよう)に身を任せることにしよう。あとは時間が解決してくれる。

 

自身が記憶するのではない、時間が記憶するのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

「覇王の家」読了

ども。

 

8月の終わりと言えども、まだまだ暑さが続きますね。けどこの暑さも去る頃には名残惜しまれるんだろうな、と考えるとなんだか少し儚さも感じますね。

 

さて、毎度お馴染みの司馬作品の書評です。

 

 

 

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今回は「覇王の家」を読了しました。前回読了した「国盗り物語」から時間が経っているのは、他の本と同時並行しながら読んでいたからです。

 

他の人から納得されないのですが、5、6冊ほど同時に読んでおります。というのも、分からなくなったら他の本に移行する、みたいな。思考できない未知なる問いはいくら考えてもその時点では答えは出せないので、他の本を読みつつも日常の中で思考していく、あるいは他の人に話を聞く、的な感じで常に5、6冊ほど平行して読んでます。

 

それらも今後は書評としてアップできたらと思うので、ぜひお楽しみに。

 

 

 

さてさて少し脱線しましたが、以下の人柄を見てみてください。

 

保守派、閉鎖的、身内には親切だけど部外者には牙を立てる・・・。

 

巷でよく聞く「老害」だなんて揶揄されてしまいそうですが、まあ日本人の気質にやや近いのではと思うところもありますよね。この日本人的気質は一体いつから芽生えたのでしょうか。

 

先の気質は実は徳川家康を表したものなんですね。家康単体のみがそうであったわけではなく、彼が育った三河の人々がそんな気質であったのです。信長、秀吉、そしてこの家康が戦国時代の三英傑としてよく並べられますが、「関ヶ原」を以前読んだ際に家康のなんと華の無さ、豪快さに欠ける事に驚かされました。天下を手中に収めた家康が、ですよ。その気質の背景として、戦国の華とも言える信長や秀吉は商業都市であった尾張で活躍していましたが、家康の故郷三河は辺り一面に広がる田畑を耕す農耕民族であったというわけです。

 

なんだか「覇王」と言うと足利尊氏織田信長を連想してしまいそうですが、この小説で描かれているのは徳川家康なんです。彼の気質、生まれ育った三河という地の人々の空気感をありありと描いた物語です。現代の日本人的気質はまさにこの家康を筆頭とする三河武士団の気質を脈々と受け継いでいるものなのでしょう。江戸時代の鎖国をはじめとする様々な施策や事件が彼らの思想から強く影響受けているのを考えるとさらに面白くなると思います。

 

そして彼の気質が作ったと言っても過言ではない江戸時代から現代に至るまでその日本人的気質は変わることなく受け継がれていると僕は思います。すると、江戸時代以前はどんな気質であったのか、なぜ変わることなく受け継がれてきたのか、はたまた奥深い問いへと誘なわれそうです。

 

意外とサクッと読めるので、ぜひ読んでみてください。

 

では。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この次の青空はいつなのか分からない。

いつからだろう。

 

目の前に広がる景色が6インチにも満たない画面になったのは。

 

いつからだろう。

 

画面を挟んで乾杯の音頭がとられるようになったのは。

 

 

 

午前6時。空港通りにあるとある建築会社に車を停車させ、眠たい目をこすりながら待っていた。そう、今日はあの凄惨な豪雨災害を受けた南予の野村町に仮設住宅を建てるボランティアバイトに行く日だ。

 

あの日、僕は北海道にいた。その少し前に同じく北海道にも台風が直撃していて、身を以て自然に支配されている生物であることを痛感させられた。

 

汗水流して、様々な思いを巡らせて育ててきた作物は一瞬にして水に流された。どんな思いで建てたのだろうか。まるで人生の伴侶かのように共に過ごしてきた家々はいとも容易く水に沈んでしまった。

 

自然には抗えない。むしろ、自然を手なずけようとする今の人類の営みの傲慢さたるや。だけど、生きていく以上、その自然と対話し、どう自然に溶け込ませていくのかを考えなければならない。

 

抗いようのない現実を突きつけらながら、ゆらりゆらりとその現場へと向かっていった。

 

道中、陥没した道路がまるでそこだけが時間を止められているかのごとく、当時の状況を記憶していた。山肌はおそらく豪雨によって削り取られていた。現地の方々の遣る瀬無さを推し量り切ることもできぬまま、仮設住宅が急ピッチで建設されている現場へと到着した。

 

5社もの建築会社がこの1ヶ月足らずで建設完了を目指していると言う。テクニカルの部分は何もできないので、後方支援という立場で1日携わらせていただいた。

 

今、学生は夏休みの真っ只中。仮設住宅が建設されているということは、家に被害を受けた方々は体育館など一時的な仮住まいでの生活を余儀なくされていることだろう。いつもの当たり前の夏休みが、川や海行き、毎朝眠たい目をこすりながらラジオ体操に行き、そして宿題に追われながらも皆満足げな表情で二学期の幕を開ける。そんな日常が突如として非日常へと変容してしまった。今も各地でボランティアスタッフの不足が叫ばれている。

 

自分には何ができるだろうか。

 

一日中、それだけが頭の中を支配していた。

 

そんなことだから、時間はあっという間に過ぎた。夕暮れのサイレンが終わりを告げ、少しの疲労と朝早くからの眠気とともに車へ乗り込み帰路へ着いた。

 

窓から溢れる夕日が、眠りについていた自分にまるで話しかけるように車内に注ぎ込んできた。今日はお疲れ様、と。眼前に広がる景色は無力な僕に一筋の希望を与えてくれた。

 

 

 

もしかしたら、「当たり前」は存在しないのかもしれない。瞬間瞬間の「当たり前」なり得るものがただただ連続して起きているだけに過ぎないのではないか。その過去の総計が「当たり前」という虚構を生み出しているのかもしれない。

 

今、自分はその瞬間の「当たり前」を目に焼き付けることはできているのだろうか。間接的な、実態のない媒介物を介在させることによって、あたかも自分が認識しているかのような錯覚をしてないか。

 

この次の青空はいつなのか分からない。