ローカルハンター ヒロ

全国を旅しながら農業や田舎の情報発信をしていきます。

「項羽と劉邦」

ども。

 

今月もとうとう終わりを迎えます。四国九州ではもう梅雨入りなんだとか。その知らせを見て、もう少しで旅も終わるものだと考えるとなんだか切なくなるとともに、帰ってからやりたいことに取り組めることにワクワクが止まりません。

 

今月は畑もそうですが、本での学びも大きかったかなと。今月は10冊の本を読了することができましたし、論文も一本読み切って考えを張り巡らせています。読み切ったのはいいのですが、著者の言語が理解できず、なかなか苦戦しております。まあこれも踏まえて、消化の段階に入っていきましょうか。

 

 

 

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さて、司馬遼太郎著「項羽と劉邦」を読破しました。(上・中を家に送り返してしまった・・・。不覚・・・。)

 

項羽と劉邦」と聞くと、多くの人が戦国春秋に終わりを告げた人物として記憶しているのではないでしょうか。メジャーな歴史上の人物かと思います。

 

六国を制覇した秦が敷いたのは歴史上初となる法治主義の国家形成。当然、中国広しで文化も言語も異なる集合体であったので、この急進的な改革に国民は徐々に不満を募らせていきました。始皇帝亡き後、宦官趙高が実質的政権を握ると一気に腐敗した政治体制へと成り下がっていきます。そこで相次ぐ反乱運動が各地で展開されます。その皮切りとなったのが陳勝呉広の乱でしょう。それから劉邦項羽が台頭し始め、剣を交え、劉邦が天下を治める話です。鴻門の会や四面楚歌といった場面が登場するのもこの話です。

 

この小説の主題は「リーダー像」

 

2人の全くをもって異なる信念がこの戦いの命運を分けたといってもいいでしょう。

 

項羽はまさに「英雄」気質であり、いわゆるカリスマ。武(=才能)をもって組織をなし、己の背中で全軍を鼓舞するといったリーダーです。世にあるリーダー像として一般的なものなのかな、と。しかし権力が彼に集中するあまり、意思決定、人材登用、政治哲学などあらゆる領域において彼の意見が施され、時にそれが自らの首を絞めることであれど誰も意見を言えないきらいも彼の脆さとして存在しています。

 

一方劉邦はというと、小説の主人公としてはあまりにも「平凡」な人物です。恐らくこのような設定で話を構成し的確にかつ示唆に富んだものに仕上げるのは、司馬遼太郎さん以外にはなし得ないのではないでしょうか。劉邦は特段知恵があるわけでもなく、加えてそれを補完するほどの武もあるわけではない。組織はてんでバラバラで統制が効いておらず、挙げ句の果てには危機を感じた時に戦う兵士を置いて敗走するほどの臆病者です。

 

ではなぜあまりにもそれら力量において相対的に劣っている劉邦が天下を取ることができたのでしょうか。

 

劉邦の天下取りに大いに貢献した韓信は彼を「実態はぼんやりとした大きな袋」と評価しました。自分の損得勘定や思考を心の奥底に隠し、さまざまな献策者たちが知恵を授けそれを劉邦は採用していきました。自分の力量を的確に分析し、自分のできないことは他人に任すことができたというわけです。劉邦の最大の長所として「空虚さ」、つまり人の目利きに冴え自分には到底思いつかないような発想を自分に取り込めることができたのです。いわばリーダーのリーダーになれる存在であった、というわけです。

 

現代社会を見渡してみると、劉邦のような存在は非常に稀有と言えるでしょう。圧倒的に項羽的リーダー像が多いですし、それを追求する人の方が多い。なぜなら後者の方が煌びやかであるから。権力や利害で人心を掌握して力で治めるリーダーが台頭しているのは政治の世界を見ると一目瞭然でしょう。ただこの小説の両者の栄枯盛衰を見て、明らかに人心を惹きつけるものがなんたるかが分かると思います。

 

リーダー=人望を集められ得る人物像とは一体なんなのか、と深く考えさせられる一冊でした。