ローカルハンター ヒロ

全国を旅しながら農業や田舎の情報発信をしていきます。

ローカルハント! in 仙台

ども。

 

小さい頃から、今目の前で起きている事実が現実なのか、それとも夢の中で起きていることが現実なのか、についてひたすら考えていた白方です。どうやら小さい頃から哲学の門戸は叩いていたようです。

 

 

 

さて、本日は仙台を1日周遊していました。先日、富良野のゲストハウスで出会った仙台の方に昨日連絡を送ったところ、昨日の今日でご丁寧に対応してくださり、1日つきっきりで案内してくださいました。いやー、本当にありがたいですよね。

 

 

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初っ端から「松島」という快速ぶり。

 

東京メトロもびっくりなくらいの勢いで松島にやってきました。今まで歴史の教科書で見てきた俯瞰した松島の全景ではありませんが、眼前に広がる多島美はやはり感情を揺さぶられますよね。瀬戸内で育ったので、日本の原風景と言えば「多島美」と僕は答えますね。

 

 

 

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そして瑞巌寺

 

宗派は臨済宗で、開山は円仁。先日訪れた中尊寺も開山者は円仁で、東北の寺社仏閣に深く関わっている人物であることが分かります。写真を見てもらうと分かるように、境内へ続く道がかなり長い。参道をゆっくり踏みしめながら、パリッと引き締まった空気感に思惟しながら歩くのもまた一興ですね。身も心も洗われます。

 

隣接されている青龍殿という宝物庫もまた良きでした。伊達政宗にゆかりのある宝物が並べられ、当時のここ仙台の息吹を感じられます。またこの常設展の他にイベントスペースもあります。今日は正子公也と御歌頭さんの戦国武将絵画展示をしており、戦国時代にこの地で活躍した武将を中心に見ることができました。特に墨絵は特筆すべきところで、その一筆一筆の雄大さに終始見入ってしまってました。

 

 

 

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お昼には「おにぎり茶屋 ちかちゃん」に行って来ました。

 

いわゆる6次産業化として活躍されている食事処で、店内の写真から、何と安倍首相が訪れたこともあるのだとか。

 

おにぎりセットを頼んだのですが、この圧倒的ボリューム。おにぎりはたらこと一風変わった味噌おにぎり。当然この味噌も手作りだそうです。

 

おにぎりの味はさることながら、豚汁も抜かりない。唐揚げの絶妙な味加減はいいアクセントになります。おそらく案内をしてくださらなければ素通りしてました。本当に来てよかった。ありがてえ…。

 

 

 

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そして夜は牛タンですね。

 

仙台と言えば、牛タンかゼビオアリーナ仙台のどちらかを連想される方が多いと思います。また今回は地元の方が集う、知る人ぞ知るお店に連れて行っていただきました。

 

以前、また違う有名店に行ったのですが、そことはまた一味違い、分厚い大きさにまず安心感を抱きます。まさに舌に巻かれる、ですね。(意味があっているとは言ってない。)

 

肝心の味は…。すげえうまい…。下味がしっかりついているのにも関わらず、肉の風味も感じられる。志向、ですよね。

 

とまたこんな感じで1日仙台を案内していただきました。たまたま富良野のゲストハウスで出会っただけにも関わらずご丁寧に案内してくださり、本当に感謝しかありません。

 

加えてここには書ききれないのですが、被災した沿岸部も案内していただき、当時の声も聞かせていただきました。これは別に書こうかと思います。

 

では。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

全国農家さんのとこに行っちゃう?日記 271日目

ども。

 

プリンにはカラメルが欠かせない派の白方です。もはやカラメルなしのプリンは夏休みのない夏のようなものであると認識しております。

 

 

 

さて、3日間青森の農家さんの元へお邪魔しておりました。

 

 

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そうなんです・・・。

 

リンゴ!

 

 

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りんご!

 

 

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🍎🍏!!!

 

 

 

久方ぶりの果樹で少々取り乱してしました。

 

さて気を取り直して。そうです、りんご農家さんの圃場に滞在していました。

 

今は摘果の時期ということもあり、りんごにはまだ色が付き切ってはいないですが、この見ただけで伝わってくる果実の生命力に終始見とれていました。美しい。

 

今回の摘果では主に2点の注意の元に作業をしました。

 

 

①小さい果実を取り除く

 

この時点で小さい果実ははねて、より大きい果実に栄養を注ぎ込みます。だいたい果実の感覚が拳一個分になるように空け、生長のスペースを残すことにも繋げます。

 

 

②病気のりんごの除去

 

病気の感染の拡大を防ぐべく、感染しているりんごを除去していきます。特に「黒星病」という、果実に黒い模様がついているものをはねていきます。この病気がなかなか厄介で、最悪木を伐採することもあるそうです。果実の実がなるまでのリードタイムは長いですから、苦渋の決断です。

 

 

 

果樹は野菜と比較して、植えてから実がなり始めるまでに多くの時間を要しますし、なかなかデリケートな管理を求めてきます。機械も当分入らないでしょうし、今後引き続き人間の手によって栽培されていくでしょう。

 

また「完璧」の二文字が存在しない領域です。病気や害虫の発生、味の劣化や伸び悩みなど悩みはつきません。しかし、それは裏を返せば常に農家に思考を求めるということです。何故それが発生しているのか、どうしたらその問題を解決することができるのか・・・。これこそが果樹農家を引き寄せる最大の魅力なのかもしれません。少なくとも僕はそう捉えています。

 

 

 

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ほら、樹齢100年のりんごの木が僕を呼んでいるではありませんか。

 

では。

 

 

農業の難しさと面白さは紙一重

ども。

 

最近見事に幸せ太りをして本州に戻るのが辛い白方です。境界線が一本引かれただけで感情が変わるなんて、困った世の中だぜ・・・。(何言ってるのか分からん。)

 

 

 

さて先日ですね、東京から無事に北海道に戻ってまいりました。つい飛行機でうとうとしちゃって眠りから覚めると飛行機の外は大雨。\オワタ/

 

毎時140ミリってやばくないですか?いやこれかなり笑い事じゃなくてですね。川の氾濫で畑が水に沈んだり、収穫時期を逸して腐らせたり・・・。

 

まあこれから直していけば良いじゃん!って言うかもしれませんが、

 

 

そうじゃないんです!!!

 

 

 

土壌はなかなか一年では作れません。先人たちが畑を耕し続け、適切な栄養を送り、耕してきたこの長い時間の成果がその畑には蓄積されているんです。ある種芸術作品ですよ。それが表面の土壌を削られ、挙げ句の果てにゴロゴロした石を産物として置いていく。これほどまでの理不尽なトレードオフはあるのでしょうか、いえありません。

 

作物もそう。一年前から朝早く起きて日が暮れるその時間まで暑い日も寒い日も、雨の日も風の強い日も農家さんが汗水流しながら情熱と時間を注ぎ込んできた作物が一瞬にして根こそぎ持っていかれることもあるんです。

 

現にそういった農家さんの体験談をいくつも聞いてきましたが、正直僕は笑えませんでした。

 

ただ農業を取り巻くこの自然環境は人間の手でどうにかできるものではありません。こういった事態も時として冷酷に襲ってくるわけです。どんなにそれを想定して対策を練っていようとも、それを凌ぐ力に圧倒されます。

 

この先のことを全く想定できない、未知なる世界が広がっているのが農業の難しさであり、面白さであると僕は思っています。毎回生命の生死を目の当たりにしながら、自分の人生について思考していく。思えば都市化によって、自他共に生命の尊厳や人生の有限性について考える機会が少なくなってきたのも、この生命の循環が頻繁に行われている農業をはじめとする第一次産業が都市の周辺部に追いやられてしまったからなのかもしれませんね・・・。

 

自然に抗うのか、それともうまく付き合っていくのか。それは各々の価値観によって変わるのかと思いますが、僕は後者を取りたいものです。

 

では。

時代遅れの「地方創生」

日に日に暑さが増し、首に汗が伝っていく。蝉の鳴き声がそこら中に響き渡り、水辺で水しぶきをあげている子供達の姿が愛らしい。そうか、今年もまた夏がやってきたのか。

 

そして時同じくして、高野山でアツイ地方創生会議の時期がやってきた。

 

 

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空海の御廟、奥の院に続く道。神秘的な力が宿るこの地で再び全国各地で地域を、日本を良くしていこうと志す200人以上の人たちが集まった。イベント詳細はこちら➡︎https://peatix.com/event/335846/view

 

 

 

さて、この「地方創生」という単語が馴染みになって久しい。思い返せば2014年の第二次安倍内閣が発足した際、ローカルアベノミクスと称してこの「地方創生」という概念が発生した。

 

それ以来、地方でのビジネスに関して多額の補助金がつぎ込まれたのにも関わらず、あいも変わらず東京一極化集中は止まらないし、地方も地方で少子高齢化、人口減少等により生じる諸々の問題は依然深刻さを深めている。

 

この1年間、たくさんの地方の農家さんを訪ねてきた。その地域の現状や問題意識、どうこれからその地域を導いていきたいのか、現場の声をひたすらに聞いてきた。そんな中、まるで地方は何も努力していない、能力が低いと言わんばかりに「地方創生」と曖昧極まりない言葉のベールで包み込むのはいささか失礼ではないのか、とも感じていた。そもそも論、4年前と比較すると社会の潮流は大きく変化しているのにも関わらず、なぜその「地方創生」という概念はアップデートされていかないのか

 

「地方創生をしています!」と言われると、なんだか良いことをしてそうな雰囲気を感じる。ただ、これは思考停止に他ならずそれを冷静に見なければならないだろう。それが本当に地域の問題に対して効果的なアプローチができるのか、補助金先行でお金を中央から取るためにやっているだけなのか(実際にその名を冠して実際何も効果的なことをしていない企業は多い。)等々それをなぜあなたがするのか、それをどんな結果に導いていくのか、そして本当に自分がそれを望んでしたいことであるのか、の部分をもっと深く考え、はたまた他の人のそれを見抜ける審美眼を養う必要があるのではないか。

 

 

 

「地方創生は結果論であって、目的論ではない」

 

 

 

もちろん一概に善悪の二元論で語り得ないが、地域の舵取りをする前に自分の舵取りをする必要がある。自分のやりたいこと、なすべきことを思考し、実践し、それが形作る未来が結果として「地方創生」に繋がってくるのではないか。そして社会の変化とともにテクノロジーや思想も刻々と変化している。それに伴う未来の地域の姿もアップデートしていかなければならない、そう改めて感じた2日間であった。

 

 

 

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「自分探しの旅」に今から出る必要はない。

平成最後の夏がもう時期やってきますね。

 

「平成最後の夏」と言ってしまえば、何事もがお祭りのような気がしてやまないです。最後の海開き、最後の夏祭り、そして平成最後の花火デート・・・。

 

急を要する重要なので繰り返します。平成最後の夏、花火大会に一緒に行ってくれる女性の方を募集しております。(注意:時給は発生しません。また残業という名のおつきあいが発生する場合もございますので、予めご了承ください。)

 

よくよく冷静に考えれば来年も同じイベントが当たり前のようになってくるのに、1つラベルが貼られるだけでこうもイメージが変わってしまうとは。人間様も単純な生き物なのですなぁ・・・。(遠い目)

 

 

 

さて夏と言えば、有無を言わさず「夏休み」と連想する方も多いと思います。まあそうですよね。夏休みの来ない夏なんて、ビッグマックを頼んだのにパティが入っていない嫌がらせみたいなもんですよね。

 

夏休みに旅行に行かれる方も多いと思います。ちなみに僕も大阪、仙台、そしてイギリスとイタリア←NEW に行ってきます。

 

そこで度々SNS等で目にするのが、

 

 


「自分探しの旅に行ってくる!!!」

 

 

 

・・・。

 

これに対して思うところが度々ありまして、1年間日本中を旅して思った結論を述べると

 

 

 

「外の世界に自分はいない」

 

 

 

ということです。(個人的見解です。それがトリガーとなり、自分のアイデンティティに気づく場合もありますので一概には言えませんが・・・。)

 

僕たちの思考は紛れもなく、過去の経験から形作られています。自分の好きな食べ物と聞かれた時、今まで食べたことのある食べ物の中からしか選ばないでしょう。食べたことのないものを好きだ、という人は何か突出した想像力がある方だけでしょう。

 

自分探し、つまり自分のアイデンティティを深掘りするのは今まで自分の歩んできた道を逆戻りするほかない、と僕は思っています。

 

実際、この旅で「自分にとっての幸福とは何か」という命題を抱えて毎日思考していました。そこで先日ようやく出てきた自分なりの回答は、「家族から受けてきた愛」だったんですね。彼らから受け取ってきた様々な愛を僕は幸せとして享受し、幸せの基準が形成されてきました。

 

例えば、めちゃめちゃ美味しい食べ物を母は何故か僕にくれていたし、父はただひたすらに僕の一方的な話を聞き受け入れてくれました。弟の正義感には僕も生きる姿勢を正されたし、祖父祖母からは人をリスペクトすることを背中で教えられた。

 

無償の愛、傾聴すること、情に厚く義に接すること、他人をリスペクトすること・・・。それら愛情たっぷりの行為全てが自分を幸せにしてくれたし、そして恐らくこれらが他の人たちの多くを幸せにすることだろうと思います。自分と他人を幸せにすることは自分の生きてきた過程にしっかりと刻まれていたんです。

 

自分探しという名のアイデンティティの再考は、外へ外へと見える世界を広げる必要はありません。

 

自分の内側へ潜り、生きてきた軌跡を辿るほかない、と僕はこの1年間を振り返って思います。

 

 

 

平成最後の夏ぐらい、外部の人々に話を聞く前に家族から自分の人生の歩みを聞いて自分と対話しろ!

 

 

 

と僕の潜在意識が僕に語りかけてきます。

 

そうですね。1年間外の世界に入り浸っていたので、平成最後の今年の夏くらい家族、そして自分との対話の時間を大切にしていこうかな、と思います。

 

では。

 

 

 

 

コミュニケーション2.0

ども。

 

先日の日本対セネガル戦の興奮ったりゃすごかったですね。2点目を取られた時は流石に覚悟しちゃいましたよね。僕だけじゃないはずです。両チーム共に死力を尽くした最高のゲームで、ここまでの予選の中でもトップクラスのゲームだったんじゃないでしょうk…。

 

 

 

え?

 

 

 

最近ブログを見てないぞ、だって?

 

ごめんなさい。つゆにヒタヒタな揚げ出し豆腐と同じかそれ以上にW杯に浸ってます、完全に。やばいっすね、今日もフランスとデンマークの試合があります。良かった、この時期で。(予定していた農業研修は昨日を持ちまして終了しました。これから帰ります!)

 

 

 

先日、農業の全体的な問題の共通項に「不信」があり、それを解決すべく不断のコミュニケーションが必要である、と書かせていただきました。(→http://local-hunter-hiro.hatenablog.com/entry/2018/06/20/204949

 

では、誰とどのようにコミュニケーションを取っていけばいいのでしょうか。

 

僕は大学を卒業したらすぐに生産者になります。何もない状態からのスタートなので、中々行政や政府に対して意見陳情を通してのコミュニケーションはちくと難しいかと。

 

ただ、お客さんに対してどのようにコミュニケーションをしていくか、これは大いに考えなければならない農業経営者の命題の1つだと思います。

 

つまるところ、農作物の価値を言語化してどのようにしてお客さんに伝えるのか、ということですね。

 

「美味しい!」だとか、「有機で作ってます!」とか曖昧な表現ではお客さんとイメージしにくいので、価値として容易に想像できる情報をどのように言語化して伝えられるかがキーになってきます。

 

今まで色々な農家さんを訪ねさせていただいて、手紙や通信といったコンテクストで伝えている方が肌感として多かったです。いいですよね、直筆でお手紙が添えられてたら。温もりがしっかりと伝わってきます。

 

ここで僕はポテンシャルを秘めたもう1つの手段を取り上げたいと思います。それは、

 

 

 

「映像」

 

 

 

テクストも長くなったり、文脈があまり伝わって来なかったら返ってストレスになってしまうこともあります。パワポのスライド一枚に文字をびっしり書かれたら読む気が失せるのと一緒ですな。

 

そこで思いやこだわり、はたまたどういう人がどんな場所で作物を育てているのか、映像として伝えることも今後発達していくでしょう。

 

というか、既にその市場が出来上がりつつあります。ライブコマースですね。

 

先日、Instagramのアップデートの際に「IGTV」というアプリがリリースされました。Instagramと言えば、若い世代の多くがインスタ映えと盛り上がりを見せていますよね。そこにIGTVというアプリが登場し、既存のストーリーを拡張した動画(ストーリーよりも時間をより長くして映像発信できる。)Instagramで配信することができます。

 

若い世代へのアプローチにはまさにうってつけかと思います。農作物販売以外にも、お手伝いアルバイト募集の際にこういった場所でこんな人たちと一緒に作業しますよ、と可視化しておいた方がイメージしやすく導線を引っ張りやすいかと。

 

IGTVのプラットフォーム以外にも、YouTubeやshowroom、メルカリ生配信などからも映像を通してコミュニケーションができます。

 

今後5G回線の普及と共に、誰しもがどこでも動画をスマホから視聴できる時代がもうすぐそこにやってきていますから、「映像」によるコミュニケーションのポテンシャルは非常に高いかと思います。

 

とIGTVをガチャガチャしてたら、早速商品宣伝をしているインスタグラマーに出会い、時代の進化は早いなぁ、と「おっさん」目線で見てました。

 

では。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

不老不死は人間に「幸せ」をもたらすのであろうか。

人間には自らの意思で選択できない事象が2つある。

 

それはこの世に生まれることと死ぬことである。(死に関して言えば安楽死を合法化している国もあるので、厳密に言うと「選択できる」ことになるのだが、ここでは選べないものとして考えることにする。)

 

これ以外の事柄は全て自らの意思によって選択できると言っていいだろう。どんな大学に行き、どういった友達と付き合い、どの会社で働くか、はたまた会社をやめるやめないの選択も全て自らの意思に起因するものである。会社を辞めることになると、家族がいるから、だとか、会社に迷惑をかける、だとか様々な理由によってあたかも自分ではやめられませんと言う人もいるが、それは自分でそう言った理由づけをして自分が会社をやめない理由づけをしているだけに過ぎない。

 

今、日本人の平均寿命は83歳で世界第2位の長寿国である。医療の発達や社会の安定、食事等様々な要因によって日本人の寿命を伸ばし続けている。

 

そこで出てくる問いとして、「人間はいつまで生きられるようになるのだろうか」がある。

 

群雄割拠の戦国時代を終わらせ、中華統一を実現した始皇帝が後に不老不死を求めたことは有名な話であるが、そんなお伽話のような不老不死が実現できる時代もそう遠くはないだろう。

 

ただ、果たして我々人間が不老不死を手にして幸せを実現することは可能なのだろうか。

 

否、僕はそうは思えない。

 

高校時代、部活動の顧問に度々怒られて「走って来い!」と何度言われたことか。その時の心情として、いつまでどこまで走ればいいのだろうか、と得体の知れぬ不安と幾ばくかの恐怖感に苛まれたことを今でも覚えている。(結局大して走っていないのであるが・・・。)

 

一方であらかじめ距離であったり時間が決まっているとどうだろうか。どんなタイミングで力を入れたり抜いたりすればいいのか戦術を立てれたり、モチベーションの管理をしやすかったりする。

 

つまり、不老不死=時間を無限に生み出せる、終わりが見えない世界に僕は覚悟を持って前に進められない。

 

僕は終わりのない世界には何の価値も、意味もないと思っている。終わりがなければ誰でも何でもチャレンジして目標を達成することができるだろう。漫然と毎日を過ごして言っても、無限にある時間はあなたに結果をもたらしてくれるだろう。あなたの努力ではなく、時間が全ての物事を解決してくれるようになる。そんな世界に果たして魅力を感じられるだろうか。

 

人生には「死」という有限をもたらすビッグイベントがあるからこそ価値を発揮する。意味を見出せる。僕はありったけの夢を有限の時間の中で戦略を立ててどう実現するか、時間と駆け引きしなければならない。もしかしたら人生の大半を費やしてもそれは1つも実現できないかも知れない。だけどそれでいいではないか。掴めるかどうか分からない、先の見えない未来へチャレンジするワクワク感を存分に楽しんでいこうではないか。

 

もう永遠に手を伸ばすことやめよう。「死」という来るべき事象は紛れもなくあなたにやってくる。来世もやってこない。だから今、自分に何ができるのか、どう自分を満足させることができるのか。それを探求し、行動し、実現していくだけでいいのではないか、と僕は思う。